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あなたの愛が冷えて来ている?

Writer's picture: Eitan ShishkoffEitan Shishkoff

Updated: Aug 17, 2022

Tents of Mercy Network of Congregations and Humanitarian Aid

Krayot, Israel




その時、彼女は私のキッチンに立って野菜を切っていました。彼女を見た瞬間、彼女が御心の人だとすぐにわかりました。

53年以上経た今、正直、そのときに感じたことが間違いだと疑ったことは一度もありません。私は情熱が時に冷めていると感じたり、緊張状態、意見の相違、誤解を経験したりしたのでしょうか。また、子育てや、仕事、世界を移動する中で、私たちの愛情に疲れや、冷めた感情が生じたことはあったのでしょうか。当然、ありました。しかしその都度、私たちはお互いを許し、優しさのスイッチを「再起動」させることを選び取ってきました。


終末時代が求める状況に足を踏み入れようとしている今、イェシュア(イエスさま)が私たち信者にお与えになった警告が思い出されます。


また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。... 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます

(マタイ24:6,7,12)


「無気力感が来るのを感じる」


終末時代に起こる混沌と不義のなかで、多くの人の愛が冷えてしまうとイェシュアは警告しました。今やそれをイメージすることが、た易くなっています。 この記事を書いている間でさえ、私は無気力感に襲われようとしていると感じ得ます—なんと取り扱われるべきことが山積していることでしょうか。昨日、ある部族がエチオピアで別の部族に虐殺されているというドキュメンタリーを見ました。人間の残虐行為。耐え難い苦しみ。ウクライナでは路上に放置された死体が。それでもまだ足りなければ、テロ行為でエルサレムは傷つけられ、米国では多重銃撃事件もあります。


主の愛は、少したりとも減ることはありませんが、この時代はどうしようもなく強く、威圧的で、混乱させます。


我々の愛は、世界がもう制御不能で螺旋降下していく様な激しさに直面しています。実質的にはゲームのサバイバルモードになっていたとしても、私たちにとって最も大切な現実に焦点を合わせるべきです。神さまとの関係こそが、この終末時代に置かれたあなたの人生で最も重要なことです。私たちの周りの状況を考えると、心をかたくなにしないことの方が難しいのです。しかし、決定的に必要とされるのは、真逆の反応なのです。

誰がウクライナに救いをもたらすのか


ロシア軍により致命的な攻撃を受けている最中、ウクライナの信者が祈り、礼拝している写真や動画を見られたことと思います。彼らは防空壕で神さまを求めています。爆弾が落ちて来る中、彼らは主を賛美するために集まっています。今そこで霊的には、何が起こっているのでしょうか? 多くの人が信仰を持ち始めています。


いざという時、周りで人々が苦しんでいるとき、彼らが神さまと出会えるよう、誰が手伝えるのでしょうか?まだ愛が冷めていない人たちのみ、神を求め、内なる火を燃やし続けている人だけです。火が冷めてしまったのなら、キャンプファイヤーで、残り火が燻っているときのように、息を吹き付ける時です。「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。」(レビ6:13)。


イェシュアからの緊急メッセージ


古代都市、エペソは、小アジア、イオニアで最も重要な都市でした。エーゲ海の港として栄え、貿易、文化、異教の宗教の中心地でした。黙示録 2:2-5 で、イェシュアは会衆に語りかけています。主は彼らの行いや、彼らの労苦、忍耐、悪に対する不寛容をお認めになりました。彼らは辛抱強く耐えてきたのですが、主は彼らを叱責されました。「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)


初めの愛とはどのようなもの?


コニーと恋に落ちた瞬間を思い出して、この記事を書き始めました。一緒に過ごした初期の頃を思い出すのは簡単です。夢のようでした。自分の真の愛を見つけたことが信じられない程でした.し、私たちはお互いについて飽きることがありませんでした。このユダヤ人「マイデレ/女の子」について、できる限りのことを知りたかったのです。恋に落ちた故に、私たちの新婚旅行は山の洞窟でしたが、リビエラ(イタリア地中海沿岸リゾート地)スイートでの新婚旅行よりも幸せでした。


26年間を早送りすると。当時、私たちはイスラエルに住んでいて、ヘブライ語を話すメシアニックコングリゲーション(集会)開拓をしていました。車を持っているメンバーはほとんどいなかったので、礼拝に行く途中で車に目一杯乗せ、礼拝後も家へ送っていました。私たちの賛美と礼拝は、ヘブライ語、ロシア語、英語で行われていたため、建物に向かう途中でOHP フィルムを新しくコピーしたりしました。私はワーシップリーダーもこなし、メッセージも取り継ぎました – すべて私のブロークンなヘブライ語で。まったくゼロから、信仰コミュニティを作ることに専念していました。その間、妻のコニーは多世代家族の世話をしていました。私たちの子供たちは 25 歳、22 歳、7 歳、2 歳でした。ときどき、私は「初めの愛」とはかけ離れた彼女に対して焦りと苛立ちを覚えました。


働きは「愛」から流れ出ていること


イェシュアがエペソ人を叱責したのはなぜなのでしょうか?彼らはマルタがしたように、奉仕のため自身を忙しくし過ぎていたからです。奉仕すること自体には何の問題もありません。しかし、ミリアム(マリア)が主の足元にちんと座っていることに彼女は耐えられなかったのです。主は答えられました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ 10:41、42)。私たちの奉仕は、主の臨在に留まることの愛から流れ出るべきです(マタイ 5:14)。


どうすれば初めの愛を、終末時代まで保っていることができる?


一つ目、私の存在そのものが神さまの愛の結果であること、主が喜びをもって私を創造されたことを覚えて、神さまの完全な愛を受け取るプロになる必要があります。その愛をリフレッシュする 1 つの方法は、「上を向く」ことです。終わりの日における苦難について、イェシュアはこう言われました。「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」 (ルカ21:28)


二つ目に、私の救い主、私の羊飼い、私の魂の愛する方に、もう一度フォーカスする必要があります。なぜ主が私たちと同じ人間になられたのでしょうか?それは、私たちと関わり、一体感を持ち、神の愛が完全に個人レベルのものとなるためなのではなかったでしょうか?人間関係における愛とは、一緒にいること、共に時間を過ごすこと、一緒に何かを行うことです。我がメシアであるイェシュアとの関係においても、何か違っている必要があるでしょうか。私が、主への最初の愛から離れてしまう原因は何なのでしょうか。私はいとも簡単に、過度に忙しくなりがちで、主に仕えることにおいても同様です。また、ともすると私のフォーカスは贖い主から、自分自身に向いてしまいます。そうなると、それは本当に最悪です。なぜなら、自分自身(自分の感情、思考、欲望、過ち、慰め)に執着してしまうと、愛すべき方が生命そのものであるということを見失ってしまうからです。


三つ目に、今こそ神の愛に、心を尽くして応える時です。最も重要な戒めについて尋ねられたイェシュアは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性(英語版は「strength」)を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と答えました(マタイ22:37)。愛は心の問題です。あなたの心はどこにありますか。私のはどこ?私の一番強い欲求は何でしょうか。自分自身の精神的および感情的なエネルギーをどこに投資しているのでしょうか。私たちには、それぞれ仕事もあり、毎月の支払いも、子供も、負うべき責任もあることを理解しています。しかし、神はそれらをご存じであり、私たちに依存している人々に忠実でありつつ、神さまへの愛の内に歩む力を与えてくださいます。愛する皆さん、今こそ熟考し、問いかけ、祈る時です。「主よ、私の人生であなたがお喜びになることは何で、お喜びにならないことは何なのですか?あなたを私の中心とします。あなたの声をあらためて聞き求めています。私は心の残り火をあおぎ、あなたに向かって燃やし続けます。」





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