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怒りの神か、愛の神なのか?

Writer's picture: Dan JusterDan Juster


旧約聖書では怒りの神である一方、新約聖書では愛の神であるとする神概念は、完全な間違いです。神さまの大いなる愛と憐れみは、聖書全体を通じて一貫しています。主の義と公正な審判も、両方において同等です。黙示録は、神の啓示がタナッハ(旧約聖書)と新約聖書の両方において一貫性を保っていることについての最も明らかな証しです。


神さまの義に対する、大いなる思い入れは、一定で変わることがなく、神に対して目に余るまで反抗し、神の道を軽蔑する人々に対する、神の義による怒りも同様です。人類は、大洪水やソドム・ゴモラと同様に、やがて最後の審判の時を迎え、反抗的な悪と腐敗に対する神の激しい憤りを目の当たりにします。それでも、裁きの直前まで、主が憐れみにより悔い改めを勧告されることや、主に立ち返った人々に対する愛と赦しを与えるチャンスは、最後の最後まで残されています。ここに注目すべき一節があります:


また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」(黙示録 14:6〜7)


黙示録においても、神の裁きの警告と良い知らせ(福音)の宣言の両方が、共に告げられています。そして多くの人が応答します。黙示録7章では、あらゆる部族、言語、民族から来た、数えることができないほど多数の人々について言及しています。黙示録14章もそれに似ており、この激震する時代に大いなる収穫へ、大きな希望を与えています。これらすべては、神さまの愛と憐れみを表しているのです。


人間の罪が満ちること、隣人に対する憎しみ、(神の)裁き、怒りといったテーマは、黙示録14:17-20で究極のクライマックスに達します。ぶどうは神の憤りのぶどう踏み場に集められます。黙示録19:15では、イェシュアご自身が「全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれる」と述べられています(使徒10:42、マタイ23:32、創世記15:16も参照)。


聖書は、神さまが、驚くべき愛、慈悲深さ、寛容さ、赦し、憐れみの神であることを示しています。主は、人間すべて、および神の被造物全体に対し、愛や、慈悲、赦し、憐れみをもって取り扱うことを望んでおられるものの、主は義の神でもあります。神の義は、慈悲深くはあるものの、蒔いた種を刈り取ることの法則により、最終的に目が覚めるような、私たちの行いの結果がもたらされることを求めます。悔い改めは緩和をもたらすことができます—「彼が行ったすべての背きは覚えられることがなく...」(エゼキエル18:21-23)。しかしこれを超えた、邪悪さがある一点に達したとき、はじめて神により迅速な裁きが執行されるという具合に、時には激しい怒りをもって取り扱いになるものの、神さまは常に正当な報いで取り扱われるお方です。


神の愛が満ち満ちた様は、神の子羊であるイェシュアに見ることができます。キリストの生涯、伝道、教え、贖いの死、復活において、神さまの愛による、救いの勧めの素晴らしさを、私たちは見ています。それでも、蒔いた種を刈り取ることと、悔い改めがされない場合におこる、邪悪に対する究極的で迅速な憤りの両方の観点から、イェシュアは神さまの義について再確認しておられます。この時代の終わりに、最後の審判にて、究極的に、正しい人と邪悪な人が分けられることを、イェシュアは教えておられます。黙示録は「子羊の御怒り」という表現をもって、これらのテーマすべてを完全に再確認し、それらの間の動的な緊張を表現しています(黙示録6:16、イザヤ2:21)。

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