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正義の黄金律 双方の意見を聞く

  • Writer: Asher Intrater
    Asher Intrater
  • Jun 19
  • 5 min read

ティクーン・グローバル

イスラエル、エルサレム


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正義は、人間社会においても神の目から見ても、非常に重要な問題です。神を源とする永遠の正義があり、人間関係における社会的正義があります。


正義には2つの側面があります。それが正義の定義であり、悪を罰し、善に報いることです。

申命記25:1

כִּֽי־יִהְיֶ֥ה רִיב֙ בֵּ֣ין אֲנָשִׁ֔ים וְנִגְּשׁ֥וּ אֶל־הַמִּשְׁפָּ֖ט וּשְׁפָט֑וּם וְהִצְדִּ֨יקוּ֙ אֶת־הַצַּדִּ֔יק וְהִרְשִׁ֖יעוּ אֶת־הָרָשָֽׁע


人と人との間で争いがあり、その人たちが裁判に出頭して、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判定がなされたとき、


誰が正しく、誰が間違っているのか、どうやって知ることができるのでしょうか?正義の黄金律とは、結論を出す前に双方の意見を聞き、理解しなければならないというものです。これは、夫婦の不和、教会の分裂、聖職者の性的疑惑、政治的見解、神学論争、刑事告発など、あらゆる種類の論争において有効なのです。


ヨハネ7:51 ‏

「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」


箴言18:17

צַדִּ֣יק הָרִאשׁ֣וֹן בְּרִיב֑וֹ וּבָֽא־רֵ֝עֵ֗הוּ וַחֲקָרֽוֹ׃ 


最初に訴える者は、 相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。


双方の言い分を聞くだけでは十分ではなく、それぞれの文脈の中で双方の言い分を聞く必要があります。もし「甲」の意見を「乙」のメディア発表の文脈で聞けば、それは偏向したものになってしまいます。逆もまた真で、「甲」のプレゼンテーションの文脈で「乙」の意見を聞いても理解されません。


「甲」は、彼自身の文脈で聴かれるべきで、「乙」は、彼自身の文脈で聴かれるべきです。メディアの力が増した今日、これは特に当てはまります。メディアはメッセージそのものよりも強くなっています。メディアによるプレゼンテーションの文脈は、本来語られるべき内容よりも強いのです。

例えば、今日のイスラエルでネタニヤフの立場を理解したければ、14チャンネルのニュースを見るべきで、野党の立場を理解したければ、11、12、13チャンネルを見るべきです。さもなければ、視点が偏向してしまいます。


プレゼンテーションが事実よりも強くなっています。 どんなメッセージも、文脈を外れると、意図した意味が歪められてしまいます。これは今日、ソーシャルメディアのフォーラムで特に当てはまります。そして、AIの進歩により、さらにそうなるかもしれません。


この原則は不可欠です。結論を出す前に、独自のメディア・フォーラムで「甲」の意見を聞き、また独自のメディアフォーラムで「乙」の意見を聞くべきです。聖書によれば、メッセージ(ことば)は金のリンゴのようなもので、メディアは銀の彫り物(台座)です(箴言25:11)。 「甲」のクリップを「乙」のメディアで聞くと、非常に誤解を招く可能性があります。    


思い出したのですが、私のメッセージの間違っている点と傲慢さが、指摘されたときのことです。彼らは私の前で、私がメッセージで語ったことのクリップを流しました。私は、「どうしてそんなことを言ったのだろう。これは私のとんでもない間違いです」と答えました。

私は取り乱しましたが、それより1-2分前から、もう少し長く、録音を再生するよう頼みました。その発言全体の文脈を聞いたとき、私は「ハレルヤ」と叫びました。「そうだ、私が言いたかったのはまさにこれだ」と。


自分の声でさえ、間違ったことを教えているのを聞くと、その間違いを確信しました。しかし、より広い文脈でそれを聞いたとき、一部を切り取ったクリップで、思われていたこととは正反対の意味でした。自分の言葉であったのにも関わらずです。

正義とは、正義と慈悲の間の動的な緊張である。


例えば、ヨセフが婚約期間中にミリアム(マリア)の妊娠を知ったとき、彼はジレンマに陥りました。律法だけに従った場合、彼女は罪のために殺されなければなりません(申命記22:23-24)。或いは少なくとも離婚しなければなりませんが、彼女に恥をかかせないよう、ひそかに離婚しようとしました。


マタイ1:19

夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。


ヨセフがそのような態度をとった後で初めて、妊娠は神の奇跡であり、ミリアムを罰する必要はまったくないことが示されたのです。  


慈悲と正義のバランスは非常に重要です。どちらの側にも間違いを犯す可能性があります。もし正義のない憐れみがあれば、恵みは世俗、肉欲、臆病、自己欺瞞の隠れ蓑になってしまいます。


ガラテヤ5:13

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。


ユダヤ教ラビの伝統によれば、残酷な人に情けをかけると、情け深い人にも残酷になるといいます。

一方、正義だけがあれば、信仰は他者を非難する理由となり、自己努力、高慢、強情になってしまいます。


ヨハネ3:17 ‏

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。


正義と憐れみの完璧な融合は、十字架にあります。イェシュアは私たちの罪のために罰を受けるという恐ろしい代価を支払うと同時に、私たちに赦しを与えてくださいました。


この神さまからの天才的な発明は「贖罪」と呼ばれています。メシアは正義を守るため、私たちが受けるべき罰を自ら受け、恵みによって私たちに赦しを宣言したのです。メシアが私たちの身代わりに罰を受けるというアイデアは、神さまにしか思いつきません。本当に驚くべきことだったのです!

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